村上春樹の生き方、 彼の作品を変えたものと、変わらない彼の文学への情熱 その人気の理由は?

 いまや日本を代表する作家のひとりとなった村上春樹氏。2006年には国民性に捉われない、世界文学へ貢献した作家に送られるフランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞しました。また、何度もノーベル文学賞にもノミネートされるなど、注目を集めて止まない作家です。今回はそんな村上春樹氏に迫っていきます。

 村上氏は1949年、京都府京都市伏見区にて国語教師で本好きな両親の元産まれました。村上氏が、当時本屋でツケで本を買うことが許されていたほど、両親は本好きであったが、そんな両親が日本文学ばかり話すことにうんざりして、高校性の時は欧米翻訳文学に打ち込みます。1年間の浪人の末合格した早稲田大学では演劇科に進み、映画脚本家を目指しましたが、大学にはほとんど行かずにジャズ喫茶に入り浸りました。そして在学中に学生結婚し、ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店後、結局7年かかって早稲田大学を卒業しました。

 そんな村上氏の、小説家としてのスタート地点は彼が29歳の時でした。村上氏は、1978年に明治神宮野球場でプロ野球の観戦中に小説を書くことを思い立ち、それから毎晩ビールを飲みながら小説を書き続けたといいます。そうして1979年に「風の歌を聞け」で第22回群像新人文学賞を受賞し、作家としてデビューします。当時アメリカ文学の影響をうけながら、現代の都市生活を描いた作品として注目を浴びました。また、1982年には本格長編小説である「羊を巡る冒険」を世に送り出し、それが第4回野間文芸新人賞を受賞します。そこから小説や翻訳、エッセイなどに積極的に打ち込みます。1985年には長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を発表し、第21回谷崎潤一郎賞を受賞しますが、そこから海外を行き来する生活を送ります。1987年には「100%の恋愛小説」とされた「ノルウェイの森」を刊行、これがベストセラーとなり、村上春樹ブームが起こるきっかけとなりました。

 1995年、そんな村上氏を衝撃が襲いました。阪神・淡路大震災と、同年に起きた地下鉄サリン事件です。ここから彼は社会的な出来事を題材とするようになります。1997年に刊行した、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした内容をまとめたものである「アンダーグラウンド」や、その続編で1999年に刊行した、オウム真理教信者へのインタビューをまとめたものである「約束された場所で」などがその代表的なものです。当時彼は、「コミットメント」という言葉で、彼自身が小説を書く際に「コミットメント(かかわり)」がものすごく大事になってきたと語っています。実際に、それまで社会については触れずに、内向的だった彼の作品は、ここでがらりと変わりました。このことが彼を小説家としてまた一つ進化させたといっても、過言ではないでしょう。

 2002年に発表した「海辺のカフカ」の英語版である「Kafka on the Shore」が、「ニューヨークタイムズ」の“The Ten Best Books 2005”に選ばれ、ここから海外でも注目され始めました。2006年にはフランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞など、国際的な文学賞を受賞しました。こうして、ノーベル賞候補として名乗りを挙げましたが、まだ受賞はなされていません。その理由としては、村上氏の作品が、強力なテーマや目的がかけているからだとも言われています。実際に村上氏は、政治的な発言もほとんどしていませんでした。しかし2009年、エルサレム賞を受賞したところから、政治色を見せるようになります。当時イスラエルがガザ侵攻で国際的に非難されているなか、周りの反対を押し切り、エルサレムで授賞式に参加した村上氏は、その席でイスラエルのペレス大統領の面前にもかかわらず批判しました。そこからは2011年に日本の原子力政策を批判するなど、頭角を現し始めます。そうして今の村上氏に至ります。

 本人曰く「敷居の低さ」で心に訴えかける彼の作風は、多くの人を夢中にさせています。一方で「海辺のカフカ」のように、現実世界と非現実世界を行き来するような彼の作品は、影響力が強く、世界中で「春樹チルドレン」と呼ばれる作家たちを生んでいます。小説だけに収まりきらない彼の生み出す作品は、これからも世界中で愛されることでしょう。

 最後に彼のエルサレム賞授賞式での一言を紹介します。私はこれが彼を一番表している言葉だと思います。

“高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんなときに私は常に卵の側に立つ。”